月森孝介は苦悩している。
 そう言えば、恐らく人は「貴方でも思い悩む事なんてあるんですね」と驚いて見せることだろう。何故なら彼らにとって月森孝介は成功者で、その人生は華々しく彩られたものでしかないからだ。
 新進気鋭の若手弁護士、月森孝介。法曹界で今最も『旬』な男の名である。
 彼の経歴は輝かしいの一言に尽きる。高校こそ決して名のある進学校ではなかったが、大学は日本の最高学府を主席で卒業、法科大学院、司法試験にも難なく合格し僅か六年で司法修生となった。幼い頃に海外生活の経験もある事から特に英語に堪能で、両親が国際結婚をしている事もまた外国の人間には受けが良かった。そんな彼を買う者は多く、教授や院長などは何度も彼に留学を薦め、国際弁護人や政治家の道を示したものだが、彼は慎ましくもそれを固辞したようだ。
 その人格は聡明にして冷静。しかしながら立ち居振る舞いは極めて紳士的で、日本人離れした美しい目鼻立ちとすらりとした体躯はそんな彼の印象を更にスマートに際立たせている。
 一年の司法修習を終え、最短距離で弁護士となった月森は、覚えの目出度かった出身大学の教授の紹介もあって極めて高名な弁護士の下で働き勉強を重ねる事となる。それが彼を様々な政治家、実業家、そして報道関係者らと引き合わせた事は言うまでもない。その縁からやがて彼は期待の新人弁護士として、とある女性誌の誌面を飾る事となる。独立し、個人事務所を持つようになって数ヶ月後の事である。
 全ては順風満帆であったし、誰もがそれを疑わないだろう。高名な弁護士の下で働いた事で、若くして独立したとは言え仕事のツテは数多くある。また彼の美貌は良くも悪くも人を惹き付けるので、芸能人や主婦、未だ十代を抜けぬ学生から年金暮らしの老女まで様々な女性が雑誌を見ては彼へ助けを求めにやって来た。
 才能にも美貌にも、そして金にも恵まれた男である月森孝介が苦悩する『何か』など、一体誰が想像する事が出来ると云うのだろう?
 …だが月森とて人の子。傷付く事もあれば苦しみ悩む事もある。そしてその悩みは何一つ特別などではない、誰しもが持ち得る単純なものなのだった。





「君のことなんか、別に好きじゃないし。」

 ふん、と鼻を鳴らしながら言い放たれた言葉に、月森は今夜も切なく言葉を呑む。目まぐるしく移り変わる数々の案件を片付け、家に戻り、食事を済まし、シャワーを浴びて漸う辿り着いた安らぎの時間…
 だと思ったのだが、
「…それは、」
「信用ならないからね、君は」
 じろ、と疑惑の眼差しで射貫かれると困り果ててしまう。
 最近ずっとこうなのだ。仕事をしたり、食事をしたりは今までと何一つ変わらないのに、夜になるとこの人は突然頑なになり、そして疑いの眼差しを向けて来る。
 この人…足立透は。

 足立との事を語るのは、実は今でも難しい。月森にとって足立は今でも矢張り何処か手の届かぬ年上の人だし、月森自身『口ではそう言うけど本当は自分の事が好きなんだろう』などと云う思い上がった発想を持てない男だからだ。
 彼と出会ったのは、嘗て連続殺人事件で世間を賑わした八十稲羽と云う田舎町。其処は月森の叔父である堂島遼太郎の暮らす町でもあり、足立が警視庁から左遷され島流しにされた町でもある。そしてその田舎町が彼らの人生を大きく変えた。
 もし足立があの町へやって来ていなかったら、月森は恐らく弁護士にはなっていなかったに違いない。そしてもし月森があの町へ行かなかったら、足立は法に裁かれる事などなかったかも知れないのだ。そんな危うい偶然の上で、彼らは今共に暮らしている。
 殺人犯として刑に服した足立の公判は、それはもう酷いものだった。何せ決定的な証拠がない。本人の自供と、公僕でありながら自分よりも弱い存在を身勝手な理由で殺したと云う批判的な世論だけが彼を公的に罪人に仕立て上げた。確かに足立は山野と小西を殺したが、それは決して証明し得るものではなかった筈だ。だが社会は彼が殺人鬼である事を確かに望んだ。そしてその社会の一員である自分に、月森も気付いていたのだ。
 自分だけは違うだなどと傲った事は思わない。あの日、あの赤黒い世界の中で、足立を『ただ倒しただけ』の自分は、足立にとっては社会の一部にしかなり得ない事は充分分かっているつもりだ。
 だから月森は足立の事をもっと知りたいと思った。力でねじ伏せ、その後を司法と云う大きな仕組みに丸投げしただけに過ぎない自分を恥じた。それ故に法を学び、大人になり、何時しか九年もの時が経ち、模範囚として仮釈放された足立と再会し、彼と共に時を過ごし…そうして彼を知って行く事で恋をした。彼は確かに社会的には卑劣な犯罪者だが、月森の前に在る「足立透」は本当に普通の、何処にでもいる一人の男なのだった。漫画や小説のような感情の死んだ哀れな人形なのでもなければ、人殺しに血の騒ぐ恐ろしい悪魔でも何でもない、ただ偶々月森と同じ力を手に入れてしまっただけの普通の男なのだった。そして月森は足立の極めて正常な社会性、人間性を知ることで、彼にどんどん惹かれて行った。